私が「論語」と出逢うまで -第二章-
皆さまこんにちは!
このところ大型の台風が到来するとのニュースが飛び交っていますね。どうか被害が最小限に収まるようにと祈るばかりです。
今日は前回に引き続き、私が中国文化を愛するようになったきっかけである「論語」と出逢うまでについての第二章をお話ししたいと思います。
是非お付き合い下さい♪
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「物事の善悪には基準になる道徳の教科書なるものがあり、母もそれを参考にしているのでは?」と思い立ち母に尋ねた私でしたが、「何を見たとかじゃなくてお母さんが自分の人生で勉強したことだよ」と言われ、子供らしく受け入れてあっさりと諦めてしまった私。
>>>前回(第一章目)はコチラ
https://wudaogena.hatenablog.com/entry/2020/09/01/私が「論語」と出逢うまで_-第一章-
その後に再度扉が開かれたのは、当時からは十年ほど経ち、音楽大学に進学しポピュラーヴォーカルを専攻していた頃のことでした。
ギターとヴォーカルのユニットを組み、活動的に作曲などをしていた時に、歌詞づくりの参考にとメンバーが勧めてくれたレゲエの神様ボブマーリーの本の存在から、啓発本というものの存在に気付くのです。
やっぱりあった!人生の教科書的な本!
私がかつて幼心に欲しがった、善悪の判断や人間形成に役立つことが沢山載っているものは、やはりこの世に存在したんだ!
自然を慈しみ敬意を払い、そして人の苦しみを癒し、魂から博愛を叫ぶ。なんて素晴らしい!
私はすっかり感銘を受け、その日からその関連の本や、新たに勧められたネイティブ・アメリカンの書物を読むことに日夜明け暮れました。
そして加えては、当時大ブームだったゴスペルからも歌詞やプリチャーの言葉から勉強をしていました。
しかしある時、自分の心に残ったまま解決しきらない何かの存在を認識し始めました。
とはいえ出逢ったものはどれも人道的な心を学べるものばかりで素晴らしいと感じるものばかり。
なのに学べど学べど何かしらの疑問が残ったままとなり、どうしても歯車の最後のピースがはまらないような感覚におちいるのです。
んー…やはり何かが自分の中でふに落ちない。
少しの期間葛藤が続いていたのですが、やはり解決が難しかったので、ついに少し離れて考えてみることにしました。
そしてたどり着いたのは
「とにかく意思を持って探せば、この世の中にはこれだけの素晴らしい学びの教典が溢れているのだから、きっと私の生きる手本とすべき学びの教典もどこかにある。」
ということ。
そんな気がして止まなくなった私は、出逢った素晴らしい言葉の数々を大切にしながらも、最後のピースを埋める何かを探すべく、また旅を始めました。
そしてついに!!
そのピースを埋める運命の出逢いの時がやってくるのです。
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いよいよ次回、論語との出逢いを果たします。
是非次回もお読み頂ければ幸いです。
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最後までお読み頂き有難うございました♪